@article{oai:shohoku.repo.nii.ac.jp:00000693, author = {伊藤, 善隆 and Ito, Yoshitaka}, issue = {37}, journal = {湘北紀要, Journal of Shohoku College}, month = {Mar}, note = {本稿は、島根県出雲市大社町の手錢記念館に所蔵される俳諧資料の中から、不識庵節山著『誹諧之伝系』(写本一巻)、広瀬百蘿著『蕉門誹諧大意 ふもとの塵』(写本一冊)、百花井宇鹿著『俳諧十五篇』(写本一冊)を翻刻紹介するものである。手錢家は、貞享年間に大社に移り住んだ喜右衛門長光(寛文二年~寛延二年)を祖とする商家で、町役の大年寄を長く勤めた。歴代の当主は文芸にも関心を寄せ、和歌・漢詩・俳諧に熱心であった。出雲俳壇といえば、去来の甥とされる水鶏坊空阿の伝授を受けた広瀬百蘿(享保十八年?~享和三年?)の存在が注目される(大礒義雄『岡崎日記と研究』(未刊国文資料刊行会、昭和50年10月)、「高見本『岡崎日記』『元禄式』の出現と去来門人空阿・空阿門人百羅」(『連歌俳諧研究』87、平成6年7月)参照)。広瀬家の系譜は、子の日々庵浦安、孫の蘭々舎茂竹と続き、手錢家の歴代、白澤園季硯(三代)、徳園人冠李(季硯弟)、敬慶(四代)、衝冠斎有秀(五代)とともに、大社の俳壇をリードした(両家には血縁関係もあった)。本稿で翻刻する資料のうち、『誹諧之伝系』は、淡々系の俳人である不識庵節山が、岱青楼冠李(季硯弟)に与えた俳人の系譜で、冠李が節山に入門していたことを明確に示す資料として貴重である。また、『蕉門誹諧 ふもとの塵』は、著者名を明らかに記していないが、広瀬百羅の著作と推定され、大社の俳人たちが共有していたであろう俳諧観をうかがい知ることのできる資料として貴重である。さらに、『俳諧発句十五篇』は、宇鹿の編著として知られる「俳諧発句十六篇」「俳諧付句十四体」とほぼ同じ内容で、同書の流布を具体的に示す一伝本として貴重である。}, pages = {11--41}, title = {翻刻・手錢記念館所蔵俳諧伝書(三)― 手錢記念館所蔵俳諧資料(六) ―}, year = {2016}, yomi = {イトウ, ヨシタカ} }